「暑さ寒さも彼岸まで」 実りの秋を感じていますか。
秋分が過ぎ、街中を歩くと屋敷に植えられた柿や栗が実を熟し、実りの秋を感じる季節となりました。満開となった蕎麦の花には蝶やスズメバチが止まり蜜を求めています。人間ばかりでなく虫や動物にとっても実りの秋です。
畑では稲穂が沢山の実をつけ、稲刈りが始まっています。日に照らされた稲は黄金に輝き、多くの手をかけた農家の苦労に頭(こうべ)の下がる思いです。
農家の次男坊に生まれた自分の幼少期の思い出が蘇ってきます。
昭和40年代のこと。稲刈りが終わり、山(コナラやクヌギを中心とする雑木林)の木の葉が落ちると翌年の田んぼに撒く腐葉土づくりの準備がはじまる。父の運転するテーラー(トレーラーを連結した耕運機)に乗り、自宅から3キロほど離れた雑木林に行くドライブは楽しみでした。雑木林に着くと、落ち葉さらいの手伝いをした。竹の熊手で葉っぱを集めるのですが、父から見れば子供のお守りついでに仕事をさせていたのだろうと思います。
篠竹を並べ、集めた葉っぱを縄で巻き、トレーラーの荷台に乗せていく。薪を燃料とする風呂の為、薪の切り出しも父の仕事でした。
ひと仕事を終え、昼飯も山の中で食べるのですが、いつものおにぎりとお新香ではなく、その日は、味の付いた肉が準備されていました。子供の分際で言うのもおこがましいですが、豊かな農家ではなかったので肉など滅多に食べられなかった。豚や鶏を飼っていましたが、養豚であり、鶏が産んだ玉子は近くの商店に売り現金収入にしていた。カレーに入っているのは常にソーセージでした。(これはこれで美味しいのだが。)
落ち葉と雑木に火をつけ、フライパンで焼いた肉はほんとうに美味かった(と記憶している)。豚コマ肉だと思うが、人生で最初のアウトドアだ。自然が調味料となって味も思い出も豊かにしてくれているようです。
現在のような焚き火台やバーナーなどがあるわけではなく、落ち葉をかき分け、焚き火のベースを作り、切り出したコナラの枝葉で火を起こす。なんともワイルドな情景だ。子供ながらに「父ちゃんはすごいな」と感心したものです。
改めて、森に寄生して生きている人間だと言うことを過去を振り返り実感します。
百姓が忙しく、親と遊んだ記憶も無いことから、暮らしの中で子を森に連れて行き、親の道具の使い方を見て覚え、雲や気温の変化で天候を察知するなど、人間の感性を育てて行くことが自然に行われていた時代だったのでしょう。
こうした人間の感性を育てる森が、地球が悲鳴をあげています。
国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は8月8日、干ばつなどの増加で2050年穀物価格が最大23%上がる恐れがあり、食糧不足や飢餓のリスクが高まると警告した特別報告書を公表。地球温暖化が土地に与える影響をまとめており、水不足にさらされる人口も増えるなど影響は多岐にわたると指摘しています。
その悲鳴に気づき、悲鳴に耳を傾けて育った16歳の少女が、地球上の「大人たち」に対して怒りの声を上げた。9月23日、国連気候行動サミット2019で『全ての生態系が崩壊し始め、私たちは大規模な絶滅を前にしています。それなのにあなたたちは、お金と永続的な経済成長という「おとぎ話」ばかりを語っている。』その声に共感し賛同した若者が世界各地で立ち上がっています。
足尾鉱毒事件で被害を受けた谷中村村民と共に闘った田中正造翁は1901年(明治43年)12月10日、明治天皇に直訴しました。その行動に感動した盛岡中学三年生の石川啄木は翌年、友人達と「岩手日報」号外を売り、鉱毒被災地に義援金を送りました。そして、その気持ちを31文字に托しました。「夕川に葦は枯れたり 血にまどう民の叫び など悲しきや 」 15歳の時のことです。
のちに石川啄木は「林中の譚」(1907年)を執筆。石川啄木記念館学芸員・山本玲子さん訳の「サルと人と森」の一節には「人間はいつの時代も木を倒し、山を削り、川を埋めて、平らな道路を作ってきた。 だが、その道は天国に通ずる道ではなくて、地獄の門に行く道なのだ。 人間はすでに祖先を忘れ、自然に背いている。ああ、人間ほどこの世にのろわれるものはいないだろう。」と愚かな人間の行為に警鐘を鳴らしています。
そして118年後の今年、グレタさんは『若者はあなたたちの裏切りに気づき始めています。裏切ることを選ぶなら、絶対許さない』と国連で「直訴」、今と未来を生きる地球人の声を代弁しています。
年々巨大化する台風と被害の拡大は現実です。「自国ファースト」の世界の為政者のみなさん、気候変動対策は待った無しです。
先人のメッセージに、若者の声に、荒れ狂う自然の悲鳴に耳を傾け、世界の森を、海を元気にすることは私たち「大人」の責務ではないでしょうか。
(事務局 清水 卓)
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