2012年7月27日 (金)

連日の猛暑と付き合う知恵と技?

P7272268  1964年前後の夏は最高気温が33度以上あがっていた記憶がありません。この頃の日本はコンクリートジャングルという言葉もなく、猛暑によって救急車で運ばれたというニュースも報道されていませんでした。夏休みの私たちは暑ければ河原に行って水遊び、親は朝早く野良仕事をして、暑い昼前後は雨戸を開けて横になり、夕方になるとひと仕事をしていました。よって子どもだった私は、茄子、ピーマン、ソーセージの油炒め等で夕飯の用意をしていました。

P7201107 猛暑が連日続いていますが、時間のある方は公園の木陰の下とアスファルト上の気温を測ってみてください。気温の差は3~5度になっているとおもいます。アスファルト上よりも5度も低い木陰の下にいると、木々(森)の有り難さを実感できます。休日の猛暑を乗り切るには、近くの公園の木陰で過ごすことを勧めます。P7150170 自然の恵みと脅威に付き合って生きている以上、この猛暑を人間の技術力で乗り切ってやろう、そして儲けてやろうという人間の限りない欲の追求と傲慢な行為は、昨年の3・11を経験した私たちの反省点ではなかったのではないでしょうか。改めて自然(森)の恵みを生活へ取り入れてきた先人の暮らしを公園の木陰の下で感じ取ってみてください。毛虫などに刺されないようにご注意ください。

P7222257 雲の色と動き、風の強さとその通り道そして風の温度差を身体で感じとり、天候の変化を予知して猛暑から身体を守ることを提案したい。暮らしの中で森に生きる木々を柔軟に使いこなす知恵と技を磨き、安全と危険を見極める予知能力を育んでください。(OWL)

2012年7月10日 (火)

静かな山の古木・ヤマナシの香りと実り

 

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 “森とも”から「思川通信」が届いた。彼女は森びとインストラクター一期生だ。3~4年前、彼女の案内でヤマナシの古木を観て、天然梨の実をご馳走になった。そのヤマナシの報告がこの通信に載っている。

 

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 「今年のヤマナシの花ぶりは見事だった。満開の花々がいっせいに空に向かって掌を広げ、それはまた、この日に花を開かせた喜びが白い大きな炎となって青空に燃え上がっているようにも思えた。このような光景を以前も経験したことがある。それは五年前の当会のお花見の前後だったと思うが、同行者と共にこの花を仰いだ時だった。人々の去ったところに誇り高く咲く花。同行者が詠んだ歌も懐かしい。・・・あれから五年。ヤマナシの木の周辺はすっかり景色が変わってしまった。あの杉林はすっかり伐り拓かれ、奥深いと思われた山はあきれるほどの明るさで眼前に迫ってくる。その山肌を伐り裂いて進む県道工事。ヤマナシの木の下を流れていた山からの澄んだ小川は、泥を抱える石の目立つ川と化し、心なしか水生昆虫の数も少なくなったように思う。黄色く輝いていたがカジカの卵はついに見つからなかった。だが、ヤマナシは残っている。しっかりと残っている。この古木がどれだけの時を過ごしてきたか、この地に生きてきた人々の証としてもこの木だけは生き延びさせたい。今春、見事な花を咲かせた木だ。秋にはきっとたくさんの実をつけるだろう。このヤマナシの種を拾って、ポットで育てあげたい。種が芽吹いて苗木となった時、ここに持ち寄って植えたい」と。(栃木県・Tさん)

 

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 筆者も3~4年前に拾った種を蒔いた。現在その内の2~3本が育っているが、当時一緒に蒔いたポポーの苗木なのか区別できない。Tさんに確かめていただく。今秋、自然の恵みの有難さと素晴らしさを改めて身体に染み込ませたい。(OWL)

 

 

 

2012年7月 4日 (水)

社会変革の狼煙は酒場から燃え上がる!

 

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 “森とも”からメールが届いた。筆者も参加したいと思っていた集会に参加してきた“森とも”からのメッセージだ。

 

「6月29日、首相官邸前デモに行ってきました。反原発デモのことを、現実的なビジョンがなく感情論で動いてるだけだ、と言う一部の人もいますが、感情ほど大事なものはないのではないでしょうか。

 

原発事故で生活をぶち壊されたままの人たちの行き場のない感情。原発のあるところに住み、原発に依存しなくては生活が成り立たない人たちの不安な感情。その気持ちに共感し、策を講ずるのが政治なのに、311以降もまったく発想の転換ができていない政治家たちに、とにかくNO!を言わないと、という気持ちが多くの人を動かしているのだと思います。

 

今回のデモには、自分と同世代の3040代のごく普通の人が多く参加しているという印象でした。私自身、昨年の明治公園(さようなら原発集会)以来、二回目の参加でした。前回、あれだけの人が集まったことに、何かすごいことが起ころうとしているのではないか?という単純な興奮を覚えました。でもその後の何も変わらない状況に、一体何人集まれば、この声が届くのか? 一体何をすれば政府に危機感を与えられるのか? という諦めも感じました。知識もビジョンも覚悟もないのにデモに行って、帰りにビールを飲んで日常に戻っていっていいのだろうかとも思いました。

 

でも今回、やっぱり行ってよかったと思います。原発をなくすことでおこる(とされる)不利益をこうむる覚悟は原発が無くなってからすればいい。何かおかしいという感情を抑えることはない。安全性が確保できないという理由で、あんなに呆気なく牛レバーは禁止になったのに、どうして原発は大目に見てもらえるのか。誰かがよきに計らってくれる、なるようになる、とはもう思えません。もう傍観者でいるべきじゃない。自戒を込めてそう思いました。」(N子)というメッセージでした。

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感情だけに流されることは危険だが、感情を変革への意識に高めていく体験、経験は絶対的に必要だ。集会に参加してメッセージをくれたN子さんに拍手だ。デモ参加者に遠慮して?集会解散地でマイクを握っていたある政党は大衆の蚊帳の外にいる。この現象が現代日本の政治の姿だ。ドロドロした大衆の中に入れない「政治エリート」なのだ。(OWL) 

 

2012年6月25日 (月)

森は知恵を養い、元気を育む

 

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 小川眞先生は、『キノコの教え』―それは共生―という本を岩波新書から発行した。発刊した理由は、「菌類は化石にならなかったために、ごく最近まで生物進化の系列から外されてきました。そこで可哀そうなキノコに代わってちょっと自己主張をしてみようと思い立ちました。昨年の大地震・津波・原発事故の災害では、キノコがいい意味でかかわっていることが分かり、これからキノコを生かした海岸林再生やセシウムの封じ込めなどを始めようとしています。そのため、この本の印税はすべてその活動資金といたします」(一部抜粋)と書いています。“森とも”の皆さんへお勧めです。

 

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 昨日の足尾の森づくりと一昨日の「こうさいの森観察会」(山形県)では、参加した若者たちの真剣なまなざしに感動しました。足尾では、植樹が終わって解散しようとした時に「握手してくれませんか」と参加者から言われた。彼女に何かを伝えられたのか、と感動した。今日のメールには桐生ローターアクトクラブ会長・須永達也さんから「参加して良かった」「失った自然を取り戻すことは途方もないことだと思った」という参加者の声が届いた。山形では、山形大女学生は「もう少し早く観察会があったならこの観察会をレポートできた」ということを話していた。

 

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 私たちのイメージソング・『心の森』の歌詞には、「想像できないような1000年後の未来も 今この瞬間から始まっている 僕らが植える小さな苗たちは 共に命をかけて未来をつくる 根を張って心を持って 本物の木になるんだ 失ったものを取り戻し 見えない明日を植えていく」(歌手:Choji)と言う歌詞がある。

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「菌類は化石になれなかった」けれども未来のいのちを守る植物には欠かせない存在だ。未来のいのちをつくる共同体の“森とも”だ。若い“森とも”たちの知恵を養い、元気を育むのは森だ。そして若者たちは60歳過ぎた私たちに檄を飛ばしてくれる。そんないのちの源は虫たちと共生している。〈OWL)

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2012年6月15日 (金)

森の中は分からないことばかり?

P6141865  森の中をじっくり見ていると足元から目の前までの草木には様々な虫たちが生きている。写真の虫も何という虫たちなのか分からないし、どのように生きているのかも分からない。 

P6144369 足元のスミレをよぉーく見ていると、スミレの小さな周囲には蟻が働いている様子が見る。調べてみると、どうもスミレが生きていくために蟻に蜜を与え、受粉を手伝ってもらっているようだ。蟻はスミレが組成した糖、アミノ酸をいただいて蟻の子孫を残している、という。

P6144328  森の中は生きものたちの共同体である。その生きもののひとつが私たちである。私たちは食物連鎖の頂点に立っているが、他の生きもののために何を与えているのかと問われると答えが出てこない。

P6141847  「植物は人間がいなくても少しも構わずに生活するが、人間は植物が無くては生活の出来ぬ事である」(『牧野富太郎自叙伝』)と言うように、私たちが生きていられるのは植物のお陰であり、森の恵みのお陰だ。特に、ゲンノショウコ、ドクダミ、センブリ等の「和薬」と言われている日本の代表的な薬は、いのちを守ってくれている分かり易い森の恵みである。

P6144336  森の共同体の生きものとして私たちは何をなすべきかを掴むには、森の恵みを体感してみないと分からない。しかし、森の中は分からないことばかりだから、“森とも”になって分かり合える努力が面白い。森が「真の文明」へ舵をきるところかもしれない。(OWL)

2012年6月13日 (水)

何事も現実に向き合ってやり抜くことは大変ダー!

P5261703  いのちを守るということは守ろうとしているその人の現実に向き合わないと単なるスローガンで終わってしまう気がしている。

物忘れが多くなった両親のいのちを守るということは、一緒に暮らしてみると大変なことであると分かった。何度も同じ話に付き合う、何度もトイレの場所を案内する、階段を上り下りする度にフォローする、風呂は一緒に入らないと背中も流せない等々とぶつかったが、いつものように暮らしている両親と向き合ってみると、少しでも傍にいることが一番の長生きの素である気がした。

P6123012  いのちの源である森と生きるということは、森に生かされている生物のひとつである人間が森の恵みを独り占めにしないことであり、使い果たしてはならないということである。

そこには“我慢”が内包され、独り占めにして使い果たそうとしている勢力に警告を発しなければならない。

 前回に紹介したメジロの巣から親が立ち去ったようだ。一週間後に巣を覗いて見ると卵がひとつだけ残っていたが、次の日にはその卵もなかった。森の有り難さを独り占めしようとした私の行為がそうさせたのかもしれない。これを見た私は、“いい写真が撮れた”という自慢みたいなことを“我慢”できなかったことを恥じる。“森と生きる”ということは、メジロに負担を与えない方法で写真を撮ればよかったと反省している。

P5211533  地震や津波からいのちを守るためには“逃げる”ということが一番であることを3・11で学んだ。未来を生きるいのちを守るためには津波に遭っても“親と一緒に逃げる”時間を稼いでくれる森が自然の恵みだ。森の防災堤づくり応援も東日本大震災で犠牲になった皆さんの現実に立ってスローガン倒れにならないようにしたい。

P6113001 原発再稼働を認めようとしている民主党・野田代表も原発事故で避難生活を強いられている県民の現実に立っていないし、高齢化社会で介護生活をしている多くの国民の現実に立たないと民主党の社会保障制度も自民党に流されてスローガン倒れになってしまう。エゾハルゼミの合唱にもメッセージがあるのかもしれない。野イチゴが間もなく美味しい恵みをくれる。(OWL)

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2012年6月12日 (火)

森の恵みを採り入れます!

 6月10日の日本農業新聞のコラムにニセアカシアの記事が出ていました。冒頭には、「花の天ぷらをいただいた。ほんのり甘く、サクサクとしておいしかった。地方によっては当たり前の初夏の味覚」と書いてあり、東京事務所では足尾ではお馴染みのニセアカシアが食べることができることに驚きました。

  ある山間地のJA組合長の「こんなにうまいものを知らないなんて。都会の人は・・・」とため息をついたとも紹介をされるほど、食せることは有名なのだと思います。

  調べてみたら、ホワイトリカーに漬け込んでつくるアカシア酒は強い甘い花の香りがして精神をリラックスさせる効果があるそうです。

  函南の原生林に入った際に、私は「森の中で1日も生活できないのではないか」と言われましたが、ものすごく納得しました。それは森の中にある木の実やキノコなど何が食べることができて、何が食べることができないのかを知らないからでした。

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  現代はお金があれば、例えばおにぎりやパンを買ったり、おかずを買うことが簡単にできる社会で、私はそこにどっぷり浸かっていました。森の恵みや旬の味などは意識をし、行動をしないとできませんので、まずは次に足尾に入った際は、ニセアカシアの花を摘んで、天ぷらを作って自分の舌で初夏の味覚を感じてみたいと思うのでした。

 

2012年6月 6日 (水)

森に入って自然の恵みを発見しよう!

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 「自然の恵みを暮らしと社会へ活かす時代」へ歩み始めるには生物社会の一員である己を改めて見つめなおす必要がある。森楽連に投稿した哲也さんの言うように「森は人間が生きるインフラのインフラ」であるということを実感するために。

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 父が米寿を迎えるので一週間両親と一緒に暮らすことにした。弟が両親を介護してくれているので弟のストレスを解消するためでもある。その準備を自宅で行い、その合間に久しぶりに森を歩いた。松木村にも若葉が茂ると蟻、アブラムシ、毛虫などが若葉に集まってくる。

 葉を餌にする毛虫たちが増えてしまうと森は弱ってしまう。松木にはノビタキやホオジロたちが子育てをしている。若葉に集まっている虫たちを餌にする鳥たちによって木々の葉は枯れるほど食べられなくて森は育まれる。自宅の木々の葉に隠れてメジロが子育てをしている様子(写真:3枚目)を観てこんなことを考えてしまった。

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 森の中ではウワミズザクラ、ミヤマザクラが白く小さい花びらを雨に濡らしていた。雨が止むとこの花に蜂が集まり、蜜を集めた蜂は受粉を手伝う。9月下旬なるとウワミズザクラの実が熟し、この実で果樹酒を作り、年末には不老長寿の酒となって私の長生きを助ける。長生きができるのも森の恵みがあるからだ。オーストラリアの海岸にはストロマトライトという微生物集合体が生きている。岩のように見えるが光合成をおこなって酸素を放出しているという。この酸素が地球を覆ってオゾン層を形成して紫外線を遮って私たちの快適な暮らしを支えている。

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 「森と生きる暮らしと社会」、「自然の恵みを暮らしと社会へ活かす時代」へ歩み始めるのか、いのちを犠牲にして原発に頼る暮らしと社会のどちらかを選ぶのは私たち。叫んでいるだけでは何も解決しない。”森とも”ができるアクションを結集させる場に「森楽連」を育てよう。(OWL)

2012年5月13日 (日)

てれんこてれんこと森を歩いてきました

ちょこっと前の話ですがGWは雨の合間に、新潟県は加茂市にある粟ヶ岳という山の森を歩いてきました。

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この時期は、山裾の初夏のような柔らかい清々しさから始まって、高度を上げるに従って少しづつ季節を逆戻りできるのがいいところ。特に雪国では低い山でも四季がぎゅっと詰まっている気がします。麓では山桜が散って展葉したばかりの新緑の中にミツバツツジが華やかに、やがてタムシバ、オオカメノキの白い花が遅くやってきた春を演出してくれます。

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複雑に鳴いているのはオオルリでしょうか。遠くにツツドリが、それに呼応するようにジュウイチが独特のリズムでBGMを奏でています。主役の木がミズナラからブナに変わるあたりから、少しづつ早春の妖精たちがちらほらと。ここではイワウチワやカタクリ、ショウジョウバカマが目を楽しませてくれていました。

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あいにく時間の都合で山頂までは行けなかったのですが、山の上は雪も残っていてまだ晩秋~冬の頃合いなのでしょう。今年はいつもより少し暖かいのかもしれません。去年の同じ時期より春が少し上にありました。。。

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それにしてもこの時期の山は萌え萌えとしてhappy01何とも言えないですねー。もし梅雨前にどこか!と思っていたらふるさとの森がオススメです~

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この山からは写真のように日本海が見渡せます。そして、左の方にしばらく行くと、いまをときめく柏崎原発(何故か東京電力)があります。どうやら東電の(どなたかの?)再建として、この原発再稼働が前提となっているようですね。

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もしそこで何かがあればここの森はいったいどうなるんだろう・・・。

大きすぎるエネルギーはいらない。自然とともに生きよう。仕事帰りにつけた金曜ロードショーのナウシカをみながら、そんなことを思ったりしちゃったのでした。(くろちゃん)

2012年4月21日 (土)

森づくりはインフラのインフラ

 先日、宮脇昭さんの本「「森の長城」が日本を救う」を読みました。また、国際生態学センターのフォーラムにて宮脇昭さん講演を聞きました。そこから自分なりに考え、森はわれわれの生活を支えるインフラのインフラではないかという思いに至りました。

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 宮脇さんは、いのちの大切さを訴えます。また、小手先の対処だけでなく、本質の対策が必要であること、森づくりは私たちのいのちを守るための、遺伝子を未来につなげるために必要であることを。

 講演で、宮脇さんがそのことを語るとき、自分の心の底に響き、胸が熱くなるものがあります。それは本質であり、人間の根底にあるものだからでしょうか。そのことをまったく異論を唱える人はいないと思います。

 だけど、いざ行う、大きな事業として行政をからめて行うというと、なかなかうまく進まないようです。それはなぜでしょうか。よく総論賛成、各論反対というのがあり、この件も多くの人がからむとそれぞれの利害関係があってなかなか進まないのかもしれません。また、あまりにも本質すぎて、目先の利益がなく、各自がそのメリットを実感できない点もあるのかもしれません。宮脇さんはそのことを承知の上でトップに訴えかけます。トップがしっかりすれば、トップが仕組みをつくれば皆はそれに向かうということです。

私自身、森びとと称し、森が大好きな一市民として自分なりに考えまして、うまく進まない理由の一つに、森づくりに対する皆の認識がばらばら、つまりその位置づけが皆で共通認識・価値がないことにもあるのではないかと思っています。

森に興味を持ち、勉強していって初めて理解していったことでもありますが、自然災害も多い日本列島において、森はわたしたちを守る一方、豊かな恵みをもたらします。つまり、生活を支えるベースになるものであります。感じるのは、我々は既にそのことを日常の便利な生活の中で忘れているのではないかということです。生活のベース、つまりインフラというと、水道、ガス、電気であり、道路などをいいます。インフラの公共事業というとそれらの整備になり、それらはわれわれの生活を支える大切なインフラであるという共通認識があります。

それに対して森は、さらにそれを支えるインフラ、いうなればインフラのインフラといえます。

 しかし、多様な価値観の現代において、森の位置づけが、水道、ガス、電気などのインフラ同等であったり、それよりもただ人の趣味のうちの一つと思われていたりと、バラバラなのが現状だといえます。

本来の森の位置づけは次のようになるではないかと思っています。

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それが今、森に対する認識は次のようなところにあるのではないのでしょうか。

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 皆、電気、水道、ガスがインフラであり、なくてはならないことを認識し、月々をその費用を支払いします。電気をどうやってつくるかは議論になっても、必要か必要でないかの議論にはならないです。森は、その電気、水道、ガスを生み出すために必要なこと、その土台にあるのです。ですから森は、電気やガスのインフラ以上に、なくてはならない性質ものものです。公共事業の一番基本にくるものともいえます。そのことは、森に興味をもっている自分のような者だけでなく、皆が共通して認識する必要がある点であると思います。

 そのことを実感として知るのは、災害のときだけではいけません。そこで尊いいのちを失ってから気づくのでは遅すぎます。ここは、皆の共通認識として、災害が起こる前に植え付けたいです。そこが、宮脇昭さんが訴える点でもあります。

 そのためには、日ごろからの皆の意識の持ち方が必要です。森は、インフラ中のインフラであるということを。これは、あまりに本質すぎて、浸透させるのは、むずかしいかもしれません。なにせインフラのインフラというとあって当たり前のさらにあたり前というものだからです。

 小生は、それは子どものころからの教育にその希みがあると考えています。今回、林野庁、環境省などに働きかけ、公共事業として森づくりをやるよう訴えかけています。それはそれで行っていくべきでしょう。それと同時に、教育分野、官庁でいえば、文部科学省のところで、子どもの頃からその意識を植え付けることが必要かと思います。つまり義務教育にくみいれることです。われわれこうして高度な社会が成り立つのも、皆が、ある一定の共通した知識であり、認識をもっているからです。それは、子どものころからの教育で身に付けてきたことでもあります。であるから、森づくりについて、それはわれわれのインフラのインフラであること小さいときから認識を持ちたいです。そして森づくりは、他人ごとでない、自分たちのこと、一番根底にある大切な「いのち」のこととしてとらえられるようになればと考えています。

 そこで今回の震災はある意味でそれを実感するいい機会であります。森びとがベースとしている足尾はそのことを示す格好の材料であります

小生、小学生と保育園児の2人の子どもをもつ父として、自分にできるところはその辺かなと考え、行動していきたいと思っています。

(哲也)